~私が中学生の頃~
もう年数も数えたくないくらい昔の話だ。
通っていた中学へ続く道。
旧道の街並みには、当時でも「昔」を感じる風景があった。
木製のガラス引き戸を開けて入る、饅頭が美味しいと人気の和菓子屋
冬場の暗がりに何度もぎょっとした、窓際にマネキンが並べられた美容院
そして、間もなく学校に辿り着くところに、一軒の駄菓子屋があった。
駄菓子屋といいながら、プラモデルや文房具なども最低限揃えられている。
それもあってか、駄菓子屋は下校後に小中学生の溜まり場になっていた。
駄菓子屋には、もうひとつ記憶に残る光景がある。
店番をしていたお婆さんの存在だ。
名前で呼ばれていたはずだが、肝心の名前がすっかり記憶に残っていない。
二文字だったような。ヒサお婆さんだったか、トシお婆さんだったか
……いや、ヨシお婆さんだったっけ。
まあいい。記憶違いだったからといって不利益もあるまい。
ここでは「ヒサ婆さん」だったことにして、話を進めていく。
このヒサ婆さん、いつも同じところにいて動かないことで有名だった。
とにかく、お金を受け取るときとお釣りを渡すときに手が動くだけ。
「いつもあそこでボーっとしてるだけだよね」
「楽でいいよなあ」
いやいや、客がいないときは寝ていることも多く
「ヒサ婆さん、生きてるのか?」
などと囁かれ、客がいない時間帯によく通りががる人間からは
『ヒサ婆さん、実は剥製の置物説』まで飛び交うくらいであった。
しかしこの置物……じゃなかった、婆さん。なかなかにして物音に敏感ではある。
私も、お菓子を会計に持っていこうとして
寝ていたので躊躇していると、パッと目を見開いて
「ハイハイ、どうぞ。ありがとね」
なんて声をかけられて逆に驚いた経験があった。
学校でもごくたまに、駄菓子屋の話題になることがある。
たとえば、少し変わった筆箱を持っていた奴に
「それ、どこで買ったの?」
「いや、ヒサ婆さんとこだよ」
「え? マジで?」
とか、たとえば何となくそんなきっかけで、ヒサ婆さんの話題に繋がっていく。
ヒサ婆さんは実はゼンマイで動いていて
それが切れる頃におばさん(※)がネジを巻きに出て来る
※おばさんが娘だったのか嫁だったのかの記憶は皆無だが、同居している家族がいた
とか
むしろヒサ婆さんそのものがロボットなのだ
とか
言いたい放題ではあるが、なぜか誰も否定できない(しろよ)。
しかし、件のおばさんが店に出てくることは稀で
ほとんどそのお婆さんが一人で店番をしていた。
話に盛り上がっていると、教室の入口から
バン! と引き戸を叩きつけるような大きな音が響き
威勢のいい人間が肩で風を切って入ってくる。
一か月に数回しか学校に来ない奴の、久しぶりのお出ましだ。
だからといって、悩みがあって登校できないわけでないらしい。
遊び回っているらしく
……いわゆる「ヤンキー」と呼ばれる部類の人間であった。
名前は憶えているが、実名を挙げてしまうのも良くないだろう。
何て偽名にしようか……ありがちな佐藤でも鈴木でも何でもいいのだが
たまたま同じ苗字の方が読んでくれていたら申し訳ない。
そうだ、思い出した。
彼はサルによく似た顔だったので、陰でモンキチと呼ばれでいたんだった。
それでいこう。
そのモンキチは、たまに来る日も昼頃の「重役出勤」ならぬ「重役登校」。
随分楽なものである。
「さて、ヒサ婆さんとモンキチのどっちが楽に生きてるんだろうな」
そんな会話をしていたような記憶がうっすらと残っている。
……いや、気のせいかもしれないが……まあいい。
会話をしていたことにして話は進める。
モンキチは、たまに学校に来ては先生に悪態をつきまくり
その度にタコ殴りにされては、途中下校する生活を繰り返していた。
今の世の中なら大問題だが、昔は体罰は普通にあったし
「されても仕方ない」というものであれば、特に問題になることもなかった。
いや、今是非を語るつもりはない(だったら書くな)ので、話を続ける。
「ああ? あそこでまだ買い物してんのか? 幼稚だな。俺は興味ねえぜ」
ヒサ婆さんの噂話を聞いたモンキチの粋がった台詞が教室に響いた。
ある日のこと。私達は、駄菓子屋の近くに住む友人からある話を聞いた。
あのヒサ婆さんは、戦争で随分苦労をしたという。
その友人のお母さんが、以前ヒサ婆さんと世間話をした際に直接話を聞いたそうだ。
私達が小中学生だったころは、お年寄りは皆戦争の体験を多かれ少なかれ持っていた。
従って、その年代の方が苦労したという話自体はそれほど衝撃的ではない。
しかし、今は毎日昼寝をしているヒサ婆さんだけは
その時代も同じ場所で動かず昼寝をしていたんじゃないか……
そんな訳がないのは少し考えれば分かるのに、やはり意外な印象は持った。
「だから、今は楽をさせてあげないといけないよね」
ヒサ婆さんが今、そのときの分も幸せに昼寝できていればいいな……
何となくだが、これに近い感情は当時この話を聞いた全員が持っただろう。
ヒサ婆さんは、もう楽をしていい立場だったのだ。
「おい! 聞いたか?」
ある早朝、登校してきた友人の一人が、教室で声をあげた。
「モンキチが万引きして捕まったらしいぞ」
別に何とも思わない。
教室にいた他のみんなも同じ気持ちだったであろう。
彼ならそれくらいはやっていて不思議はない……
「それが捕まったのね。ふぅん」
全員の共通認識だったように思う。
それもあってか、顔すら上げずに雑談の続きに集中する女子もいる。
「ああもう! 何で誰も反応しないんだよ!」
彼だけが、イラついた様子でもう一声あげた。
「だって、やってて全然不思議ないじゃん」
「むしろ、悪いことしたなら捕まえてもらわなきゃ」
当然だという反応がいくつか続いたとき、彼が続けた。
「じゃあさ、どこで万引きしたと思う?」
やっと静寂の時間が訪れる。
「えっと……まあ普通に考えればショッピングセンターだわな」
当時、ショッピングモールなどという洒落たものは
少なくとも田舎には存在しない。
あるのは、商店街に毛が生えた程度の……
正式名称は忘れたが、ショッピングセンターと呼ばれた施設があったくらいだ。
彼は「やっと思い通りの反応が来た」とばかりに
満足げに首を横に振る。
「じゃあ……どこ?」
視線は彼のもとに集まった。
「ヒサ婆さんとこだよ!」
マジか。
一同に軽蔑の空気が漂った。
「サイテー……」
女子のつぶやきまで聞こえる。
一番やってはいけない場所ではないか
(いや、他ならやっていいとかはカケラも言ってない)。
変に粋がっていても、そういう主義は通す男だと思っていたのに。
一同がざわつく中、彼が更に話を続けた。
「で、誰に捕まったのか聞かないのか?」
「いや、お巡りさんでも巡回してたんだろ?」
「警察でなければ……巡回してたのは生徒指導の〇〇(先生)?」
「でなければ、おばさんがたまたま店にいたとか?」
全ての答えを彼に否定され……ついに選択肢がなくなる。
満を持したように、彼が答えを告げた。
「もう分かっただろ? ヒサ婆さんに捕まったんだってよ!」
しばらくの間を置いて、教室に爆笑の渦が起こった。
この辺の会話などは「たぶんこんな感じだった」のを繋げた創作だが
ただひとつ、あまりの爆笑ぶりに
隣のクラスから様子を見に来た人間がいたことは記憶に残っている。
恐らく、思いはみんな同じたったであろう。
猛烈な嫌悪感を吹き飛ばす、痛快な結末だからだ。
あまりのことに机を叩きながら笑いこける奴もいて
職員室から様子を見に来た先生に、クラス全体が叱られることになった。
興奮が冷めた頃……我々は大切な疑問に辿り着く。
「なあ……モンキチはどうやってヒサ婆さんに捕まったんだ?」
これは、数日後の話である。
なぜなら、確かに作り話としては面白かったが
モンキチがヒサ婆さんに捕まったとは、誰も本気で信じていなかったからだ。
数日経って噂が本当らしいと知ってからは、その話題で持ちきりになった。
ちなみに、モンキチはそこまで鈍足ではない。
よく出ていた説を挙げよう。
『ヒサ婆さん実は俊足説』
『ヒサ婆さん瞬間移動の術使用説』
『ヒサ婆さん(の姿をしたロボット)の足にモーターがついている説』
『ヒサ婆さんに妖術をかけられてモンキチが痺れて動けなくなった説』
その中で、現実的かつ有力だったのは
『お店のどこかにヒサ婆さんが罠を仕掛けた説』
である。
その日を境にして、我々はヒサ婆さんのお店に行くと
罠の在処を探す「現場検証」に明け暮れた。
しかし、私の知る限りにおいて、その答えは見つけられていない。
いつもコッソリ現場検証をしながらお菓子を買っていく中学生を
ヒサ婆さんは優し気な笑顔(寝顔?)で見守ってくれていただけだ。
結局、謎を残したまま
5つ下の弟が中学生になった頃には、その駄菓子屋は店を閉じていた。
過ぎ去った年月を考えると
ヒサ婆さんはもう天国で楽に暮らしていることだろう。
蓮の池のほとりで、あのお店にあった椅子に座って
のんびりお昼寝できているだろうか。
そして、モンキチ家は当時から一家で企業を経営していた。
恐らく今は代替わりして、モンキチが社長になっているのだろう。
社長には「楽になれた」のかもしれないが
今のご時世、経営にはそれなりに苦労しているのかもしれない。
今でも実家に帰る通り道、株式会社モンキチ(当然仮名)の前を通る。
駐車場に停まっているジャガーだかシボレーだか
それは恐らくモンキチ所有の車であろう。
あの当時からその車に乗っていれば
ヒサ婆さんに捕まることもなく楽に逃げられただろうに。
そう考えるたびに、なんだか笑いがこみ上げてくる。
空から眺めるヒサ婆さんはどう思っているのだろうか。
ヒサ婆さんの姿を思い出す……
いや、待てよ。
どんな高級車に乗っても、ヒサ婆さんの手にかかれば
簡単に捕まってしまうのかもしれない。
いつか、私も楽ができるようになったら
暇な時間を使って、ヒサ婆さんがモンキチをどうやって捕まえたかを
もう一度検証してみたいと思う。