副業・ライター

満月の夜・コートを着た男~3000文字チャレンジ「あたたまる」~

「最悪だ」
出張先の1つでの出来事。
そこの楽しみは、早く終わらせて直帰できることにあった。
ところが、「楽」と「苦」は表裏一体。
どういうわけか、田舎でもないのに
この出張先から自宅に向かうバスは1時間に1本しか走っていないのだ。
そして今
私はスマホを手に、3000文字チャレンジの下書きを始めながら、バス停に立っている。
定刻なら5分前に出たであろうバスが、遅れて現れる奇跡を待ちながら。

スマホを眺めて、更に数分が経過している。
ここまで下書きを進めても、バスは来ない。
いつもなら10分遅れも珍しくないのに。
しかし、世の中そんなものだろう。
しばらく立ち尽くしていたが
ここで1時間後のバスを待つのは時間が勿体ない。
さて、どうするか。
歩けば1時間半。
不可能な距離ではないが、ひと山(いや、丘か)越えなければならない。
そして、正直なところ
ここでバスを待ち続け、1時間後の便に乗るのと所要時間は変わらない。

そのとき。
別路線のバスが視界に現れた。
「このバスに乗れば・・」
瞬時に計算をする。
途中下車して歩けば、全て歩くときと比べ3分の2ほどの距離になる。
そこからのルートは、少し大きな公園沿いの道。
景色を見ながら歩けば雰囲気も楽しめるだろう、悪くない。
気付けば、バスの中から車窓を眺めていた。
全て歩くことを決断していたら通っていたはずの道は
足早に流れていく車窓の一部となって、後方に消えていった。
そこそこに冷えた外の世界と比べ、やはりバスの中は暖かい。
日頃は何も感じないエンジン音も、癒しの音に聞こえてくるから不思議だ。
そして、冷え切っていた体が程良くあたたまる頃に
下車するバス停に到着した。
「寒いですね、お気をつけて」
市バスにしては(失礼)気さくな運転手さんが
前席から降車口に向かう私に声をかけてくれた。
「ありがとう」
お礼を言いながら、心もあたたまってバス停に降り立つ。

バス停で進行方向を眺めたとき
私は重大な計算ミスを犯していたことに気付く。
暗いのだ。
公園沿いの景色も何もあったものではない。
冬の午後6時30分。暗いに決まっている。
何故こんな当たり前のことに気付かなかったのか。
「今日は早く帰宅できる」
そう浮かれていた1時間前の自分に
いったいどれだけこの「惨事」が想定されていただろうか。

そもそも、最悪という冒頭の言葉が既に間違っている。
最悪というのは
「想定していた中で」最も悪い出来事が起きたことを意味するものだろう。
とすれば、これは
「最悪な出来事」ではなく
「想定外の出来事」なのではないか。
しかし、ここで立ち止まって自分の見立ての甘さを嘆いていても何も始まらない。
何か良いことが起きるのを期待し、寒風に逆らいながら、自宅への道を進むことにした。
気さくな運転手さんが操るバスの後姿はかなり小さくなっている。

暗い夜道。
風も強い。
増して上り坂の三重苦。
いや、もう1つあった。
寒い。
四重苦だ……いやいや、まだあるかもしれない。
考えると辛くなるので、無心になって歩を進める。
上り坂を一歩ずつ進んでいくと
やがて坂が緩やかになり、そして遂に平らになった。
無心になると、意外と早く辿り着けるものだ。
一息つき、ちょっと立ち止まってみる。
振り返ると、夜景がまあまあ綺麗である。
寒いのに、目だけがあたたまる思いだ。
この夜景
どこぞの100万ドルとまではいかないが
缶コーヒーくらいの価値はあるかもしれない。
やっと、ここまで歩いてきた甲斐があったと感じられた瞬間であった。

さて、あとはこの道を下っていくだけだ。
体力的にはもう楽なはずである。
この下り坂……計算ミスを犯した、公園沿いの薄暗い道……でもある。
さらに、この道ではウォーキングの人とよくすれ違う。
夕食のあとに歩いているのか、それとも運動してから夕食にするのか。
どちらにしても
ウェアを着て歩く人が多い中で
スーツの上にコートを着た男が混じると異質に感じてしまう。
一番(お互いに)警戒するのが、若い(と思われる)女性とすれ違うときだ。
何か間違ってキャーと悲鳴を上げられたら、私の人生は終わる。
いや、相手からしても
「何故こんなところにコートを着た男が」
と考えれば、多少なりと人生の危機を感じるだろう。
そうか、このコートが悪いのか。
歩いてちょうど体があたたまってきたし、それならコートを脱いでみるか。
それとも
ここは、私が安全な人間であることを証明するために
ギャグを一発かまして和まそうか。
しかし
その2つをまとめて
コートを脱ぎながら「斎藤さんだぞ」とやると
「キャー案件」になり、お互い危険である
(いや単に相手にとって迷惑千万なだけだろう)。
しかも私は斎藤さんではない(そういう問題ではない)。
そんなことをつらつら考えているうちに
気付けば女性ともすれ違っていた。
ほっと胸を撫で下ろす(向こうもそうだったに違いない)。

公園の周回道路を通り過ぎた。
まだ公園沿いの道は続くが、人通りは途絶え
10数秒に1台くらいの割合で車が通るだけになる。
物音もなくなり、風の音と自分の靴音が響く。
少し心の余裕ができ、暗がりに広がる周囲の景色にも気が回るようになった。
そういえば、この日は満月だった。
空を見上げてみたが、この時点では雲に覆われて見られない。
残念だが、こればっかりは仕方ない。
見上げたついでに横を見ると、公園の木々が黒く迫っている。
歩く周囲に誰もいないことを確かめ、マスクを外して深呼吸してみた。
森の匂いだ。
この匂い、いつ以来だろう。
冷たい空気の中で感じられる、森の不思議なあたたかみ。
歩くペースを少し落とし、しばらくマスクを外したままで
ゆっくりとその不思議な気分を味わった。
コツ、コツ……
革靴から奏でられる音も心地良い。

やがて、街の光が見えてきた。
私の住む街の明かり……やはり、見慣れた光はどこかあたたかみを感じる。
森のあたたかい匂いに別れを告げ、再びマスクを装着し
残り少なくなった帰路を一歩ずつ進む。

通りを1本渡ると、そこからは家やお店が並ぶ道だ。
通り慣れた道のはずなのに、どこか新鮮なのは
今までの道のりがくれた余韻なのだろうか。
そのとき
道沿いの家から、夕食の香りが漂ってきた。
この家は、今夜はカレーライスのようだ。
この家の家族構成は知らないが
カレーの匂いを嗅ぐと、子どもの歓声が聞こえてくるように感じられる。
通りが賑やかになり、街灯の数も増えてきた。
明るい雰囲気の中、犬を連れて散歩中のご近所さんと出会う。
「あら、こんばんは」
「あ、ああ、どうも(ああビックリした、〇〇さんか。しかし、マスクしてるのによく分かったな)。寒いですね」
「今日はどうされたんですか?」
「ああ、バスで帰ってきたので……」
「あ、バス停から歩いているんですね。お疲れ様です」
いや、すぐそこのバス停じゃなくて、もっと遠くの……
なんてわざわざ主張するものでもないので
そのまま挨拶をして別れた。
何よりも、不審者だと思われなかったこの道の明るさが嬉しい。
そして、自宅の明かりが見え、ようやく「小さな旅」が終わりを告げる。
夜空には、先程は見えなかった満月が
雲の隙間から半分だけ顔を覗かせていた。

「ただいま」
「おかえり」
ゆっくり歩いた分、結局全て歩いたときと同じくらいの時間を要した。
あのバス停で絶望感に苛まれた時から、1時間半。
気付けば楽しい「計算ミス」だったように思う。
寒い夜道を経て辿り着いた、あたたまる我が家でのひととき。
1時間半の道のりで、その有り難みも感じられた。
これからも、たまには歩いて帰ってみようか。
日が長くなれば、当初の計算通り
公園の景色を見ながら帰る楽しみも増えるだろう。
その前に
「私は不審者ではありません」
というタスキでも作っておこうかな。

リビングに足を踏み入れる。
我が家の夕食はおでんだった。
いつもありがとう〜
と、コートを脱ぎながら妻に近寄ると
彼女は戦慄の表情を浮かべ
悲鳴を上げる準備をしていた。

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