副業・ライター

ビデオ・ポケベル、そして予言~3000文字チャレンジ「平成」~

「亡くなったね」
朝、教室に入って発したセリフ。
何故か、既に教室にいたメンバーから笑いが漏れた。
「は? 俺何かおかしなこと言ったか?」
表に出ろ、というセリフを発しかけたとき
私の気性を知る友人が表情を変え、慌てて「弁明」を始めた。
「あ、いや違うんだよ」
どうやら教室に一番乗りしたらしい奴が、友人の言葉を繋げる。
「今Takaが9人目なんだけどさ、みんな第一声が同じだったから」
ああ、そういうことか。
でも、そりゃそうだろう。
文字通り、一つの時代が終わり、未知数の世の中が訪れるのだから。
昭和64年、1月7日。
共通一次試験が直前に迫った、高校三年の冬の出来事だった。

来年からは試験の名称が変わり、大学入試の改革が進むらしい。
ここで失敗して浪人するわけにはいかない……誰もがそう思っていた矢先の出来事。
「どうなっちゃうんだろうな」
丸63年。
定年を迎えた人でさえ経験したことのない「時代の終わり」に、不思議と不安が溢れていた。
その日のうちに新しい年号が発表になり、テレビであの色紙を掲げたおじさんを繰り返し見ることになる。
それと同時に
私はお小遣いをはたいてビデオテープを大量に購入した。
「どこを回しても同じ内容の番組ばっかりでつまんねぇ」
自粛のあとは、新元号。
テレビ番組は正直何も見るものがない。
唯一、「奇特な」放送局が放映したアニメ「ムーミン」が、爆発的な視聴率を記録したという。
次にこんなことがあったときの為に映画やスポーツ番組を撮り溜めしておこう
そう心に決めたのが、ビデオテープ購入の理由である。
その後、放映された映画や興味のあるスポーツ中継、バラエティ番組
録りまくったそれらのビデオテープが役割を果たす日は二度と訪れなかった。

こうして始まった、平成という世の中。

時は流れ、「へいせい」という元号の響きに慣れてきた頃。
大学ではカラオケにボーリング、冬になるとスキーにバイト代の全額を費やしていた。
カラオケは、尾崎豊、浜田省吾、徳永英明……サザン、BOWIE……ちょっと渋めな層は安全地帯、等々。女性ならドリカムとかZARDとか……パッと思い浮かばないが、まだまだたくさんの歌が歌われていた。
そうそう。
当時のカラオケはまだ出始めな感じだったが
安全地帯の「ワインレッドの心」では女性のエッ……いや、刺激的な映像が流れて盛り上がった記憶がある。
「お前、歌上手いなぁ♪ ワインレッドの心を女の子の前で歌ったらイケるんじゃねえの?」
意地の悪い奴が、健気で騙されやすい人間をけしかけ
……いや断じて私は関与していない。
騙されて気取って歌い出した奴を、事情を知っている女の子達と一歩離れた場所から笑って囃し立てていただけだ(一番タチが悪い)。

そして、その時代で思い出すものがもう一つ。
今では必需品となっている携帯電話だが、平野ノラがネタにしている大きなものでも当時はなかなか見かけない程貴重なものだったはずだ。
学生の頃は、ポケベルすら最先端であった。
そのうち、ポケベルはただ鳴るだけでなく、メッセージを送信できるようになる。
884121
最後にこれを付ければ「(スペース)たか」と送ることができる。
慣れるまでは表を見ながら文字を打っていく姿は、今思えば滑稽なものであろう。
その後はPHSに移り変わり、そしてやっと大衆が携帯電話を持てる時代になっていく。
初期の携帯電話では、着信音を自作していた人も多く存在した。
たいてい、どこかに「違和感」を持ったメロディーが出来上がるのだが
(そして私は挫折した)。

PCにしても、初期の頃は一行ずつ上からカタカタガラガラ音を立てながらページが表示されてくるものだった。
それでもしばらくは、「いんたぁねっと」なるものが新たなページを表示してくれる様を興奮しながら見守っていたが
飽きてくるとその時間は「一服の時間」に変わる。
初期の頃は、一本吸い終わって戻ってくると2〜3行くらい進んでいる感じだったように記憶している(タバコから縁を切って久しい今だったら、どうやって時間を潰しただろう)。

G-SHOCKが流行ったのはいつだっただろうか。
猫も杓子も、というのも変だが……
そんなことを書いている私も、限定モデルを1つ持っていた。
しかし、似合う者と似合わない者がいるのは仕方のないところだ。
顔つきや装いも「和」の雰囲気しかなかった寺院の息子がそれを嬉しそうに付けてきたとき。
私達(というか私)はその腕時計を、彼の父親の職業をもじって「じゅうショック」と名付けた。
仲間全員に弄られた彼が、その後その腕時計を付けていたという報告は聞いていない。

可哀想に(←お前のせいや)

社会人になって何年かして久しぶりに集まった、大学の同期で飲み会を行ったときのこともたまに思い出す。
社会人数年目といえば、そろそろ「下っ端」でなくなり人の上に立ち始める頃だ。
よくこの3000文字関連の記事でもネタにしていた面々も集まった中で、そのうちの一人がぼやき始めた。
「ちょっとさぁ、聞いてくんねぇかな」
「どうしたん?」
彼はそのとき、バイトの子達をまとめる責任者になっていた。
「この前、バイトの女の子が、不幸があって数日休むと連絡してきたんだよ」
「しゃあないわな。身内が亡くなったなら」
「そりゃ大変だなという話をして、しばらくして話の流れで聞いたんだ。誰が亡くなったんだ? って」
「分かった。ネタやな? 実はサボりとかか?」
「それがな、涙声になってきて……」
「あっ……マジなやつかい……」
その彼女は、涙ながらに彼に告げたという。

大切に育ててきた

たまごっちが亡くなったと。

「待て待て待て!」
「んなアホなことあるかい!」
「作り話ならもっと上手く作れよ」

「あのなぁ」
彼の次の発言で、場は静まった。

「俺だってネタだったら中途半端になることくらい理解できるわ。
そんな中途半端な作り話を恥ずかしげもなく公開したら、むしろ天才だろ」
確かに。

その頃、たまごっちを購入するために長蛇の列ができていたのも懐かしい話題だろう。
一体あの喧騒は何だったのだろうか。
でも、それはそれで楽しかったとも思う。
今もたまごっちは人気があるようだ。娘が育てていたこともある。
ただ、今「あの時代の」たまごっちを見たら、何を思うだろうか。
特に、今は「大人になった」その「バイトの女の子」に聞いてみたい。

平成が半ばに差し掛かった1999年7月
この世が終わるのではないかという「予言」を信じる者が現れる。
「もうどうせこの世は終わるんだから、好きに生きていくさ」
今までだって充分好きに生きていたはずの奴が
まるで悟りを開いたような口ぶりで話す。
周囲は皆
「そんなことやっていたら将来泣くことになるぞ」
と予言していたものだ。
彼は今どこで何をしているのだろうか。

そういえば、MDなんてのもあった。
「時代はMD、CDは古い」とばかりにMDを作り
多くの貴重なCDを失ったのは黒歴史の一部と言える。
あの頃私が売ってしまったCD達
今も大切にしてもらっているだろうか。
所有者の方に出会ったら、私は涙目でこう訴えるだろう。

「お願い。返して」

「だったらカネ払え」という話である。

平成の半ばあたりは、ドラゴンズが全盛期だった頃。
年間で20試合程観戦していたが、そこでも色々な出会いに恵まれた。
それまで、最短で試合開始から1イニング3分の2で
(現2軍投手コーチが8失点KO)
メガホンを真っ二つに折り
応援ユニをゴミ箱に叩きつけて帰った経験を持つ私に
猫をかぶらせてくれた仲間たちだ。

その後のドラゴンズもすっかり弱体化して親会社は相変わらず腐り切っているので、あれだけ強い時代は二度と来ないだろうが、いい思い出を作ってくれたと思う。
ただ、死ぬまでに日本一(優勝して日本シリーズ制覇)を一度は見たかったなぁ。
それが心残りでならない。
まあ、今の状況が改善したら、たくさんの仲間と観戦できたらいいな。
優勝や日本一どうこうが戦力的に言えなくなっても
仲間と楽しく観戦できればいい思い出(とネタ)ができるだろう。

平成を何となく振り返ってみたが
ビデオテープを無駄にし
カラオケでベッドシーンを出して(出させて)盛り上がり
ポケベルの文字入力に苦労し
携帯電話の着信音を自作しようとして挫折し
住職の息子がG-SHOCKを手に入れ
たまごっちの死でバイトの女の子が忌引きし
ノストラダムスに翻弄され
MDのせいで大切なCDを失い
ドラゴンズで歓喜し、暴れ、そして呆れた

……って
何だこの30年は。

まとめ方を間違えると大変なことになる見本のようだ。
誰のせいでこうなったんだ?

間違いない。

私のせいだ。

時代は令和になり
あまりいい事が起きていないようにも見える。
しかし、後から振り返ってみればきっと
「懐かしい思い出」ができていることだろう。
マスクをして出かけることも
そもそも出かけること自体難しかったことも
懐かしく振り返ることができる、そんな平和な未来が訪れることを願っている。

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