新東名高速道路・新城インターを下りて、長篠の合戦を感じながらドライブする今回のルート。道の駅もっくる新城で「楽しみにしていた足湯が第3木曜休み」という早速のリサーチ不足を露呈しつつ(でもお休みは木曜日しか取れなかったから仕方ないのです、と言い訳(^_^;))前回のお話を終えたところからです。
前回のお話は、下のリンクからどうぞ
愛知県新城市をドライブ~名古屋から新城インターチェンジへ~
長篠設楽原歴史資料館
外観……
足湯に続き「またか」という思いがよぎりますが、開館はしていて一安心。入場料を払って中に入ります。
ここは初めて入館しましたが、印象としては、個人的には一度行けばもういいかな。でも、行ったことを後悔するようなレベルではありません。一度は見ておきたかった場所ですし、価値のある展示物もあるので、一度見ておくのはいいと思います。
この辺りを初めて訪れる方は、長篠城とセットになった入場券もあっておすすめですよ。続編でお話すると思いますが、長篠城の資料館の方が合戦に関連した展示物が多く、合戦巡りが目的ならそちらの方が見応えあるでしょう。
信玄塚
歴史資料館の正面あたりを歩くと、信玄塚の案内板があります。
その案内板の矢印に従っていくとすぐに、信玄塚に到着します。敷地としては、資料館の「隣」なのでしょうか。他のお墓もあるので、お寺の敷地なのかもしれませんね。一つ一つを見ていけば色々分かったのかもしれませんが、今回は外観と備え付けの案内板だけ確認して次の目的地に向かいました。
「信玄塚」、東三河や南信州あたりでよく見かける気がします。武田信玄の本拠地であった山梨あたりではどうなんでしょうね。
ここでは、長篠の合戦で戦死した人を祀っているとか。……あれ? じゃあ信玄公は関係ないのでは?(長篠の合戦当時、武田信玄は既に亡くなっていて、後を継いだ勝頼が武田軍を率いていた)
……まあいいや(考えるのが面倒臭くなったらしい)。
馬防柵
長篠の合戦では、戦国時代最強とうたわれた武田軍の騎馬隊をどう防ぐかが、織田・徳川連合軍にとって大きなテーマであったと言われています。そこで、丸太を組んだ柵を作り、馬の侵入を防ぐ方法を取った……そう伝えられているのが馬防柵です。
設楽原古戦場に馬防柵が復元されているということで、今回見に行くことにしました。場所は前述の歴史資料館や信玄塚の近くにあります。歴史資料館近くの駐車場に車を停め、歩いて現地に向かいました。
連吾川
長篠(設楽原)の戦いは、織田徳川連合軍と武田軍が連吾川を挟んで対峙し、武田軍が連吾川を渡って戦が始まったとされています。鉄砲などについて今では異説も多く出ているようですが、とりあえずこの川周辺で大きな戦いがあったことは事実ですからね。下の写真だと、ちょっと川の存在が分かりにくいかな……
連吾川……川の名前は戦国時代好きでないと答えられないであろう「難問」とはいえ、長篠の戦いで両軍が対峙した川としてはそこそこ知られているのではないでしょうか。当時はどうか知りませんが、こんな小さな川なんですね。
そういえば、姉川の戦いで有名な「姉川」も今は小さな川だと聞いたことがあります。姉川もまた、いつか見に行ってみたい川のひとつです。
連吾川の話題に戻します。
見たところ、流れている水は綺麗に感じます。この辺りは豊川など、清流も多い場所。きっと湧水が豊富にあるのでしょう。
実際に川の近くまで行ってみました。雨の後でもないのに、水量はそこそこあります。ということは、現在では灌漑などのために流れる範囲を狭めているけれど、当時はもう少し川幅があった可能性もありますね。こうして当時の様子を想像するのも、古戦場巡りの楽しさの一つだと思います。
武田軍の立場で馬防柵を見る
連吾川の対岸から馬防柵を見てみました。それが上の写真です。手前の畑の先に連吾川が流れています。写真では馬防柵は光景の一部に見えるだけですが、復元してあるのは一部のはずで、有名な屏風絵を見ると、この辺り一面に柵が巡らされていたようです。もちろん、今の写真と異なり、絵の作者が実際にこの位置から眺めたものをそのまま描いた(あるいは、現地で見た人に言われたままを忠実に描いた)可能性は限りなく低いでしょう。それでも、当時の書物で語られている内容とさほど変わりはないはず。
……どうなんでしょうね。
いや、結末を知っているから言えることなのかもしれませんけれど……一面に柵が巡らされている状況で、鉄砲を構えた軍勢がその後ろに控えているのが見えます。
「突っ込めぇぇぇ!!!」
って、皆さんなら突っ込みますか?
……いや、突っ込む立場の武士は大将の指示に従うしかないので、行かざるを得ないでしょう。しかしこれは、屏風絵の通りであればもう「死を覚悟していた」だろうなぁと思ってしまいます。
川を渡ったあたり。この辺りで砲撃を浴びてどうにもならなくなる感じでしょうか。
大将として誰が突撃の最終判断をしたのか知りませんが(ドラマと違い、総大将の勝頼は実際のところ後方にいて前線の光景を見てはいないでしょう)、勝算はあったのでしょうか。自分なら「裏手に回り込んで背後から何とかできないか」など姑息な考えを巡らせながら、その場で様子を見ますが。
あ、ひょっとしたらもうその場で滞在するための食糧が足りなくなっていたのかもしれませんね。「食糧基地」にするつもりだった長篠城はなかなか落とせなかった訳で。
……などとつらつら考えるのも好きです 笑
多分、その場に10分以上立って考え事をしていたと思います(^_^;)←そういう時間も大好きです
すいません、ちょっと熱くなって語りすぎました。
織田徳川連合軍の立場から
今度は、馬防柵のある側から見てみました。
鎧を着た武者が馬に乗って突っ込んで来たとしても、これはかなりの安心感があります。鉄砲の3段構えで対峙したという説には最近異論も多いようですが、それにしてもこの眺めは即座に命の危険を感じる必要がなさそうです。
さて……結末を知っている後世の人間はそう感じましたが、実際にここに立っていた兵達は何を思っていたのでしょうか。あるいは、武田軍の騎馬隊にあっさり柵を乗り越えられるシーンを想像して、震えていたのかもしれませんね。
戦死者の供養碑
長篠の合戦地周辺には、あちらこちらに武田方で亡くなった名のある武将の最期の地とされている碑があります。突っ込んで壮絶に散ったのか、退却途中で追いつかれたのか。碑を見つけて立ち止まり、手を合わせる……供養とともに、それぞれのドラマを想像する時間でもあります。
設楽原の決戦場をあとにして、次に長篠城へと向かいますが、今回はここまで。次回は長篠城の様子をお伝えします。