自転車は、お手軽な乗り物だと思う。
小さな頃から親しみ
友人と遊ぶときにもいつも乗っていき
「新車」を買ってもらうとワクワクする
(とはいえ、そうそう買い替えるものでもなかったけれど)。
自転車のことを、どう呼んでいるだろうか。
名古屋や近郊の愛知県民はケッタと呼び
おどけて言うときなどには、さらにマシーンをつける。
実は、大学に入って愛知県を離れるまで
ケッタは全国共通の言葉だと信じていた。
いや、信じるとか信じないとかすら考えたことがなかったと思う。
大学でできた友人相手との会話で「ケッタ」と口を滑らすと
「ハア? 何それ?」
言葉の意味を知らない友人との間には、微妙な空気が流れた。
ケッタが方言であることを知ったのは
入学後、学生寮からの登校初日のことだ。
大学まで歩いて行くには距離があると先輩に指摘され
「はい、なのでケッタで行こうと思っています」
と答えた。
そのときの
「お前、それ標準語や思うてるやろ」
先輩の笑った顔が忘れられない。
「チャリンコもちゃいますやん」
慣れてきてからであれば、エセ関西弁で言い返せただろうが
当時は、標準語でなかった衝撃の方が大きくて
その場で立ち尽くしてしまった。
「ほら、もう分かったから早よ行き。遅れるで」
いやいや、今から出れば普通に行けば
10分前には教室で座っているはずである。
しかし、出発して数分もしないうちにその意味を知ることになる。
大学は海沿いにあった。
やたらと風が強く、距離以上に時間がかかる。
とにかく前に進まない。
こんなに進まないことが今までどれくらいあっただろうか。
スクーターのおばちゃんに、簡単に追い抜かれる。
ただし、おばちゃんの顔も逆風で崩れて鬼の形相となっていた。
いや、あれはきっと
おばちゃんの姿をした阿修羅だったに違いない。
というか、阿修羅様
ヘルメットくらいされたらいかがか
(当時は今ほど厳しくなかった・・もちろん見つかれば捕まったんだろうけど)。
いや、他人(人であったかどうか不明だが)
のことを言っている場合ではない。
私だって相当鬼の形相をしていたはずだ。
何とか間に合って教室に駆け込む。
しかし、想定に反して人が少ない。
5分前なのに、何故?
周囲を見ると、そこそこの確率で息の上がっている人を見かける。
その後も続々と駆け込んでくる新入生。
それでも、3分の1くらいは空席である。
教授がやってきた。
「おお、今年の新入生は優秀ですね」
嫌味かと思ったが、そうではないらしい。
「ここまで辿り着くのは、通常の倍かかりますからね。
時間に余裕を持って出てきた皆さんは優秀です」
授業が始まってからも
遅れて駆け込んできた新入生に、教授は語りかける。
「ようこそ。まぁ、ゆっくり息を整えてください」
微妙だった空気はやがて和み
教授がそう語りかける度に、教室から笑いが起き始めた。
しかし
私とて、バカではない。
大学には、八割方の人間が私とは逆の方向から来るのだ。
追い風に乗って来る奴らが
何で一緒になってしんどそうな顔してるのか。
ところがである。
相手がこちらを見る目も同様に冷ややかだったのだ。
自転車とは、不思議な乗り物である。
何故、行きも帰りも逆風なのだろうか。
私達が相手に感じていたように
相手も私達に感じていたのだ。
「そっちは追い風のくせに」
いつしか、大学キャンパスという不思議な「魔鏡」は
「逆ブラックホール」と呼ばれた。
全てのものを吸い込まず、はじき返される。
いやいや、ナメちゃいけない。
帰りだって逆風なのだ。今度はその魔鏡に引き込まれる。
帰りはブラックホールに様変わりだ。
なかなか帰ることのできない、逆風の道。
やがて時は過ぎ
季節風が吹き荒れる季節になると
「風が強かったから」
は、充分同情に値する欠席理由となっていた。
社会人になり
自転車とは縁遠い生活を送るようになると
もうその乗り物を気にする機会もなく過ごし始める。
次に自転車と縁ができたのは、娘ができて成長し
それに乗るための練習を始めたときであった。
大人になって、自分が当たり前に乗れるようになると
乗れずに苦労したときの記憶は無くなるらしい。
増して、運動に関してはやや苦手だった娘……
自分が運動は得意な方だったこともあり、余計にもどかしさが募る。
「まあ……仕方あるまい」
ある程度恥ずかしくない程度に乗りこなせるようになったところで
自転車トレーニングを終えることにした。
帰り道。コンビニの前で娘に問う。
「何が欲しい? よく頑張ったから買ってあげるよ」
「そう言って、お父さんが何か一緒に買おうとしてるんでしょ?」
よく分かっているな、我が娘(当時6歳~7歳)よ。
何なら、Uターンしてその減らず口がきけなくなるまでしごいてやろうか?
……彼女は知っている。
彼女の漕ぐ自転車を追いかけながら
父親の息が限界近くまで上がっていたことを。
結局、娘はあまり自転車が好きにはなれなかった。
それはそれでいい。
「乗ろうと思えば乗れる」状態になっているから
必要なときにはいくらでも乗れるだろう。
5年前、家族旅行でカナダのバンクーバーに出かけた。
街にある「スタンレーパーク」にあったサイクリングコース。
珍しく娘が興味を持ったので
レンタサイクルで公園を一周することにした。
「公園を一周」と聞くと
大きくても数分、というイメージかもしれない。
しかし、この公園は一周1時間以上かかった。
海沿いを走り、途中で止まっては木陰で自然を感じ
間近ではリスの姿も見られて、娘も大興奮だった。
ひょっとすると、これで自転車を好きになってくれたかな?
帰宅すると、元のように
娘は自転車に見向きもしなかった。
それからまた時は流れる。
コロナで公共交通機関が使用できなくなった時期
私は通勤で自転車を使う機会ができた。
久しぶりに乗ってみたが、風よりも今度は坂が気になってしまう。
そして
自転車とは、不思議な乗り物である。
何故どこを通ってもきつい上りがあるのか。
……いやいや
これに関しては、別に自転車のせいでもあるまい。
私も年齢を重ねて
「意地を張らない」という技(?)を習得している。
疲れたら、降りて引けばいいではないか。
あるとき、振り返ってみると
視界に続く道の3分の2以上
自転車を引いて歩いていたことに気付いた。
自転車に乗っていると
季節の空気を感じられて、楽しい気分になる。
子供の頃や学生の頃にはこんな気分にはなれなかった。
何故だろうか?
当時は、心の余裕がなかったのではないか……
それが今の私が出した答えだ。
ちょっと周囲を見る。季節を感じる。
あの雲、あの景色。
逆風だって、季節の匂いを感じられれば楽しい。
坂道を上る体力は無くなったが
もう慌てて駆け上がる必要もない。
少しだけ余裕を持って出かければ
たとえ半分歩いても平気だろう。
あのときの教授も「優秀だ」と褒めてくれるに違いない。
増して、そこで綺麗な光景を見つけられれば
写真に収めて、あとから眺めれば癒しになる。
自転車から降り、写真を撮っている横を
電動の自転車が通り過ぎていった。
便利になったものだ。あれなら坂道も平気だろう。
でも、自分はこの自転車でいい。
息切れしなければ
今撮影しているこの景色には出会えなかった。
この花をツイッターにでもUPすれば
みんなも喜んでくれるだろう。
それはそれで面白い。
自転車通勤は、2カ月ほど続いた。
その当時は「面倒臭い」と思っていたが
振り返ってみると、色々面白い経験ができたと思う。
たまにある下り坂を走る爽快さ
わざわざ回り道をして、自然を感じるひととき。
いい体験ができたのかなと感じられる。
自転車には、色々な思い出が付いてきて楽しい。
この文を考えながら歩いた、数日前の散歩道
公園でフラフラと自転車を漕ぐ小さな子の姿を見つけた。
あの子にとって、自転車とはどんな思い出ができるのだろうか。
近寄って話しかけたくなった。
「自転車のこと、標準語で何て言うか知っとる?
ケッタマシーンって言うんだよ」
悪いおじさんである。
自転車とは、不思議な乗り物だ。
自転車が乗せているのは
人でなく、思い出なのかもしれない。
「最後にいいこと言ったつもりでいる筆者」
の向こう側では、今はきっと
方言の意味を知らない友人に向かって口を滑らせた、あのときと同じように
「ハア?」な空気が流れていることであろう。
激しい逆風が、私の心の中で吹き荒れる。
まあ、いいじゃないか。
ゆっくり行けばいい。
そういうときは、降りて次のネタでも探そう。