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愛知発・史跡巡り~武士達が見たであろう光景「長篠設楽原古戦場」~

新東名高速道路、新城インターを出て新城市街・豊川方面に車を走らせると、古戦場の案内板が見えてきます。時間にすると僅か。気にしていればそれなりに目立つので問題ありませんが、まだ先と思っていると見落としてしまうかもしれません。看板に従い右折したところにあるのが、長篠設楽原古戦場です。



長篠設楽原古戦場とその周辺

長篠の戦いに関連する史跡や施設は、新城インターの周辺一帯にあります。これまで紹介した長篠城址や新城市の信玄塚もこの辺り。また、新城インターで降りた経験のない方も、パーキングエリアの存在はご存知かもしれませんね。下り方面のパーキングエリアからは、織田信長の本陣跡まで散策できます(多少階段を登る、大変な場所ですが……)。


この一帯で大きな戦いがあった、その痕跡はあちらこちらにあります。主だった武将の本陣跡があったり、名だたる武田方の武将のお墓などが点在していたりして、意外な場所でも史跡を目にする場所です。

長篠設楽原古戦場資料館

ここは……まあ、遠くからお越しの際は長篠城址と共に訪れる価値は十分にあるでしょう。ただ、この資料館ができる以前に長篠城址の資料館に出向いたことがあるというのであれば、あえて見学するだけのものがあるのかはコメントに迷うところです。同じような「長篠の戦いの資料館」としては、棲み分けの難しいところはあるのでしょう。そして、どういうわけかこちらに、長篠の戦いとは関係のない偉人の方の資料も展示されています(そちらに興味のある方にとっては非常に有意義な資料館です)。
でも、フォローになるかどうか分かりませんが、どちらも訪れていないのであれば、一度訪れておく価値は十分にあると思いますよ。

馬防柵へと向かう

資料館から馬防柵へと向かう道すがら、以前紹介した信玄塚があります。こちらの話はその記事を見ていただくとして……向かうのは、設楽原激戦地と呼ばれる地域。馬防柵が復元されています。古戦場はたいていそうなのですが、ここも普通の農村地区です。当時からもあまり変わっていないだろうと想像できる田園風景と山、そして森。手前には、武田軍と織田徳川連合軍を分ける場所に流れる川・蓮吾川があります。

馬防柵について

近年諸説出ているようですが、長篠の戦いでよく知られるのは「織田信長が用意した3,000挺の鉄砲隊が、無敵を誇った武田の騎馬隊を撃破した」という逸話です。そのとき、鉄砲隊を騎馬隊から守る役割を果たしたとされるのが馬防柵。読んで字の如く、騎馬隊の進撃を防ぐ目的で作られた柵です。長篠の合戦絵巻にも、川の両側に対峙する両軍と馬防柵の光景が描かれています。実際に、こんなものがあったら少なくとも騎馬隊はそこで足止めを食らいますよね。

武田軍が見ていた光景

開戦の直前、この状態で柵の向こうはびっしりと織田徳川の大軍。仮にここで鉄砲隊が居並び、火縄銃の銃口があちこちから向けられていたら……
「どうして突っ込んだのか」
というのは……
・結果を知っているから言える結果論
・そもそも命というものの捉え方が違う時代
・火縄銃の本当の怖さが分からなかった
・じゃあ逃げるのか。自軍の大将に斬られて余計に無駄死にでは
さまざまな「答え」があり、愚問だと分かっていても、それでもなお呟きたくなります。
武田軍の武者達は何を思い、この道を進んでいったのでしょうか。

このお地蔵様は新しそうだから、当時は知らないだろうけれど……ここにいらっしゃったであろう「先代」のお地蔵様に、当時のことを聞いてみたくなります。

火縄銃の怖さ

以前紹介した長篠城址をはじめ、各地でお祭りなどの際火縄銃の実演が行われており、私も小学生くらいの頃に見たことがあります。子供ながら思っていたのが「なかなか撃たないなぁ」ということです。
その後調べて、当時の火縄銃は弾を入れて撃つまでに30秒前後かかるという事実を見つけました。「当初の常識では、戦の最中にそんな悠長なことをしていればその隙にあっさり討ち取られるので、火縄銃は戦ではまず使いものにならないものだった」と。そしてその「当時の常識」を打ち破ったのが織田信長の「三段撃ち」であり「(撃つ用意をしている間に攻め込まれないための)馬防柵」である……こんな内容だったと記憶しています。
私が(しかも子供用の伝記か何かで)仕入れた情報はもう数十年前のもので、今は新しい説も多いのでしょう。しかし、火縄銃に対する感覚は似たようなものだったことは想像できます。そう考えると、あそこから突っ込んだ武田軍の武士達も
「あんなもん、撃つまでに辿り着いて柵をなぎ倒して仕留めてしまえばいい」
こんな感覚だったのかもしれませんね。

馬防柵の向こう側

どちらが「こっち」でどちらが「あっち」か分かりませんが、古戦場の位置関係のため武田が陣を敷いた側から見ていく形になるので、織田徳川から見た光景を「向こう側」と呼びます。
先に武田方から見た光景は、馬防柵の向こう側から見るとこのような感じです。これもまた結果を知っているから「これなら突っ込んで来られても安心できる」等々思いますが、実際はどうだったのでしょうか。もちろんこの柵は復元なので、当時の柵の強度なども分かりませんし(それなりに時間をかけて布陣したらしいので、結構頑丈であったことは想像つきますが)当時の武士達の思いと同じになるのは難しいかもしれませんね。
でも、史跡巡りの楽しさは、こういった「当時のことを思い浮かべながら歩く」ことにもあると思います。

蓮吾川

合戦絵巻などを見るともう少し大きな川を連想しますが、まあこんなもの……なのでしょうか。ただ、水量がそれなりにあるので、今は農業用(多分)に水路化されているものの、当時はもう少し川幅があったのかもしれません。水源は湧水なのでしょうか……綺麗な川、という印象です。
もし水量が当時と変わらないのであれば、川を渡る際多少は進軍に影響しても、柵に辿り着くまでの影響は思うほどはないのかもしれませんね。ただ、川の両岸を渡る際ぬかるみはどうだったのでしょうか。中には「この辺りは沼地だった」とされる資料もあったような気がしますが。

長篠設楽原古戦場を巡って

個人的に、長篠城址は10回以上訪れていますが、この古戦場はここ数年で行っただけです。当時馬防柵の復元がなかったからかもしれません。それでも、一番の要因は「長篠城址でお腹いっぱい」だったからのように思います。どう表現したら良いのか……織田徳川が本気を出した時点で、この古戦場での決戦を前に「勝負あった」のではないかという思いが拭い去れないとでも言いますか。劣勢だったのが火縄銃で逆転したわけでもないですし……もちろん「まさに結果論」なんですけどね。
しかし、実際にその地に立ってみると、当時のイメージが(実際合っているのかどうかはさて置き)湧いてくるような気がして興味が持てます。

Taka娘
妄想が爆発してるね
Taka
何が正しいのか、今生きている人の中で、実際に見た人はいないからね
Taka嫁
いろいろな可能性を考えながら見られるのも楽しいのかもね
Taka
史跡を巡って当時を連想する楽しさ、理解してもらえた?
Taka娘
全然意味わからない
Taka嫁
ごめん、ついていけない

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