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愛知発・史跡巡り~徳川家康敗走の道を辿る「三方原古戦場」その2~

前回に引き続き、三方原古戦場巡りの道中から紹介していきます。前回、古戦場の碑がある場所まで出向きました。ここからは「敗走を辿る道のり」。今回は少し私見も交えながら紹介していきます。史跡巡りは「本当にそうなのか」を考えるのもまた楽しいものです。それでは、今回長編になるかもしれませんが、最後までお付き合いください。


徳川軍敗走の道のり

古戦場の碑から浜松城に引き返すルートを走ります。行きで説明したとおり、なだらかな大地で見通しは良い地域です。車で走っても10〜15分……もしも古戦場の碑がある場所が主戦場だとしたら、敗れた際は(傷の有無はさておき)ダメージゼロなわけはなく、帰路は大変だったことでしょう。まあ、相手もどこまで追ってくるのか分かりませんが。

犀ヶ崖資料館に到着

浜松城が近付いてきたところに、犀ヶ崖資料館があります。駐車場に車を停め、まずは周辺の散策で史跡巡りです。この犀ヶ崖には、昨年(2023年)の大河ドラマ「どうする家康」で重要なシーンとなった数々の出来事についての史跡があります。まずは駐車場を降りてすぐの場所から紹介していきましょう。

本多忠真顕彰碑

2023の大河ドラマ「どうする家康」で「呑兵衛殿」として登場した、本多忠勝の叔父・本多忠真の武功を讃える碑です。三方原の戦いで戦死したことは、大河ドラマでも取り上げられていましたね。殿(しんがり)としてこの地で亡くなったとされているそうですが、この案内板を読むと、顕彰碑は明治になってから建てられたようです。

夏目次郎左衛門吉信碑

大河ドラマ「どうする家康」では、家康に何度も名前を呼び間違えられる「夏目広次」という役で、甲本雅裕さんが演じていましたね。前述の「呑兵衛殿」もこの「広次」も、俳優さんの演じるキャラクターは味があって好きでした。その夏目吉信もこの地で亡くなっている……これもドラマのとおりのようです。この「夏目吉信碑」は、犀ヶ崖の資料館から国道を渡ったところにあります。何も知らずに資料館だけに行くと見落としがちな場所にあるので、大河ドラマの舞台を見たい方は特に注意したいところです。

犀ヶ崖資料館

中は無料で見学できます。資料そのものは少ないですが、これだけ揃っていれば十分その歴史は確認できます。案内してくれる方もいて、動画なども見せてくれますよ。

ここで、犀ヶ崖について

話の流れの都合上、前後しました。「そもそも、さっきから出ている犀ヶ崖(さいががけ)とは何か」という点を少しお話しておかなければいけないですね。大河ドラマ「どうする家康」でもそれほど取り上げていなかったように思います(一応「一矢報いた」的な取り上げられ方はされていたような記憶がありますが)。
逸話を、筆者の記憶のままに書きます。
「三方原で敗走した徳川家康本隊は浜松城に引き返す。そこでわざと城門を閉めず、焚き火を焚いて『このまま城に攻め込むと何か仕掛けがある』と警戒させる『空城の計』を仕掛けた。武田軍も無理に攻め入ることはせず、近くに陣を構えて一夜を過ごすことに。武田軍が敷いた陣の近くに崖『犀ヶ崖』があることに着目した徳川軍は、崖に布をかけて橋があるように見せかけておいて、その反対側から奇襲を仕掛け、橋から逃げようとした武田軍を崖に落として、一矢報いることに成功した」
とまあ、こんな感じだったかと思います。

逸話と史実

この「犀ヶ崖」の逸話ですが、個人的には怪しい(史実ではない)と感じています。
理由その1
敵陣が近い中、しかもこちらは敗戦で形成の立て直しが難しい中、崖の反対側から布をかける時間と労力がどれほどあったでしょうか……という、普通に現実的なお話が一つ目の理由です。
理由その2
浜松城の目の前まで迫った(空城の計が確認できるところまで押し寄せた)武田軍は、当然崖を一度越えているはず。いや、後述する予定ですが、名のある人物が複数討死しているこの犀ヶ崖は、お堀のような役割も果たしていて、戦況によっては最終防衛線のような場所であった可能性も考えられます。まずはそこを突破する時点で崖の存在を確認できないという愚挙はあり得ないでしょう。一方、徳川軍がダメージを負っているのは明らかで、このまま籠城したところで仮に武田軍が全力で攻めてきたら勝機がないことは徳川軍も分かるはず。そうなれば城から打って出て破れかぶれの反撃を受ける可能性がある。そのような場面で、武田軍は果たしてどこに陣を構えるか。ここで崖を背に陣を構えるのははっきり言ってかなりの愚挙ですよね。「背水の陣」という逸話もありますが、あれは、本来危険なものを背に陣を敷くことはタブーなのを、自軍の士気が上がらないので「逃げても確実に溺れ死ぬだけだ。生きたければ敵陣を突破しろ(意訳)」という意図でやったもの。今回は当てはまりませんよね。もしこれで本当に被害を被っていたのであれば、武田側の史料に「形成有利な状況下で愚策により反撃を受け、戦後処罰された司令官(武将)」の名が記されているのではないかと考えるのです。「背後に崖の存在を知っていながらそこに陣を敷いた」にせよ「崖の付近を突破してきたのに崖の存在に気付かずそこに陣を敷いた」にせよ。ここは「史実を知っているから故の結果論」ではないですよね。
理由その3
先程も触れたように、武田軍は三方原で徳川軍を撃破した時点で「目的達成」だと思うのです。今回も(まあ諸説ありますが)徳川軍の追撃がなければ「スルー」したのではないか。というのも、このときの武田信玄の目的は上洛であって、そこまでのルート上の大名をしらみ潰しに叩き潰していく時間も体力もないはず。事実、その後武田信玄は志半ばで遠征途中に亡くなります。実は「自分はもう長くない」ことはある程度悟っていたのではないでしょうか。そんな状況の中、一旦通過した浜松城にわざわざ戻ってのんびり城を落としている暇はないのではないか、と思います。ある程度追って「よし、もういい。次行くぞ」となる。つまり「こんなところ」に留まって反撃を受けるなんてことはないんじゃないかな、というのがこの逸話の信憑性を疑う2番目の理由です。
ただ、史実と違っていようが別にいいと思います(だったらここまで割いた文字数は何なのかと)。必死に戦った事実があったからこそ、こういう逸話が生まれるわけですし。そして……

犀ヶ崖で見るべきもの

犀ヶ崖そのものは「反撃した場所ではなく、最終防衛線だったのではないか」と思っています。
「ここから先は一歩も通さん!」
なんてセリフが大河ドラマにもありましたよね(三方原ではなかったと記憶していますが)。事実として、この犀ヶ崖で本多忠真と夏目吉信が戦死したとされる碑が存在しています。この崖がお城の堀の役目を果たしていて、ここで武田軍の追撃を身を挺して食い止めたのではないか……そう考えても、ここは重要な場所となりますよね。

犀ヶ崖上から見下ろした写真を撮ってみました。木が繁っていて分かりにくいですが、まともに落ちたら無傷ではいられないでしょうね。昔はこの崖がもっと大きく(面積が広く)深かったそうです。

大河ドラマ「どうする家康」と犀ヶ崖

崖がどうという話はなかったとはいえ、「夏目広次」と「呑兵衛殿」の最期の地として見応えがありそうです。ドラマで撮影地となった等「この地で最期を」という具体的な場所がないので、想像力を働かせないといけませんが、碑の場所で少しドラマの場面を思い浮かべるくらいはできそうですね。……あまり多くの時間浸っていると通りがかりの方に心配されるかもしれませんが(^_^;)

三方原を訪ねて

徳川家康にとっては唯一と言っていい惨敗を喫したこの地を「汚点」と捉えていたからかどうか分かりませんが、はっきり分からないことの多い地ではあります。それが逆に想像力を働かせるきっかけになって、面白い訪問になったように感じました。この地で行われた戦いは歴史上よく知られていますが、これから先も新たな発見があるかもしれません。

Taka嫁
お疲れ様
Taka
目が潤んでいるよ。命を懸けた徳川軍のお話に感動してくれたんだね
Taka嫁
あ……うん。勇敢な人達ね
Taka娘
ああ、よく寝た
Taka嫁
(そういうこと言っちゃダメよ。お父さん頑張って語っていたんだから)
Taka娘
(お母さんだって今欠伸してたじゃん)
Taka嫁
(え……何のことかしら)
Taka娘
(大きな口あけて涙流して欠伸してたの見たんだからね)
Taka嫁
(お父さんにはナイショよ)
Taka
あの……聞こえていますけど

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